寝台列車の終着駅

 
自分では何も変わっていないと思っても、まわりが勝手に変化を察することがある。それは、見た目の美しさに関するものだったり、逆に「少し太った?」というよけいなお世話な問いだったり、はたまた内面に関するものだったりと、さまざまだ。とくに内面に関するものは、良しにつけ悪しきにつけ人に伝わりやすく、相手のするどい指摘や物言いたげな表情によって、自身の変化を喜んだり、自戒したり、あるいは開き直ったりすることになる。しかし、ときにはまったく面識のない通りすがりの人によって、自身の小さな変化を悟ることもある。自分でも気づかないような小さな変化は、微細な振動となってまわりに伝わるものなのかもしれない。

夜の帳が下り、場末のさらに奥の小さな住宅街では眠りにつく準備がはじまっていた。夫婦ふたりで営んでいる八百屋は店じまいをはじめ、肉屋と惣菜屋を兼ねた店ではオカミが腰をかがめてショーケースのなかの売れ残りを確認している。ガラガラ声のスナックのママがアーチ状のドアを開けると、買い物帰りの近所の住人に声をかけながら看板を表に出した。午後7時。うらぶれた場末の街にもまだ昼の気配がただよい、なけなしの秩序がそろそろ退散しようという時間、道端では60絡みの男がワンカップの酒を握り締めたまま眠りこけていた。いかめしい角刈りと彫りの深い顔立ち。肩から背中にかけては、色の入っていない輪郭だけの仁王の刺青がひかえめに凄みを効かせていた。近くの大学の学生たちは、あたかもそれが都会の流儀というように男に目をくれず、しかし意識はしているような面持ちで通りすぎていく。

そのとき、正面からランニングウェアに身を包んだメガネの男が走ってきた。ひょろりと背が高く、左右で内径の違うタイヤをはいたリアカーのように、左足で着地するたびに左の肩を極端に落として呼吸のリズムを整えている。少し前に見た光景と、いかにも仕事が早く終わったから走っていますという様子のヘルスコンシャスな彼とのギャップに戸惑いをおぼえた。すると、彼が突然立ち止まり、その場で足踏みをはじめた。横を通りすぎようとしたところで、彼が口を開く。
「すみません」
まさか、ナンパだろうか? いや、わたしがナンパされるはずは……。内心からだをくねらせながら、どう答えるのが効果的かと考えていると、彼が言葉を継いだ。
「〇〇駅はこちらの方向ですか?」
「ええ、こちらを道なりに行くと、駅が見えてきますので」
「ありがとうございます」
軽く目礼すると、彼はまたバランスの悪いリアカーのように左肩でリズムを取りながら走っていった。道の真ん中で、ぼんやりと、何か夢でも見ているような気持ちで彼を見送る。通行人に睨まれてわれに返り、あわてて道を開ける。こんなことってあるのだろうか。

それまでわたしは人に道をたずねられるタイプではなかった。過去の経験を合計しても、せいぜい片手で足りる程度だった。だから、自分が人に道をたずねられたという事実は――仮に相手が壊れたリアカーのような男でも――結構衝撃だったのだ。しかし、これははじまりにすぎなかった。壊れたリアカー男を皮切りに、わたしは週に一度の割合で人に道をたずねられる人間へと変貌した。早稲田から日本橋のほうまでママチャリで行くという気合の入った中年女性、大学に入りたてという感じのあどけない青年、スーツ姿のおじさま2人連れ、彼氏とツーリング中の若い女性。そして、直近でいちばん印象に残っているのは、葬式帰りとおぼしき老齢の男性だった。


日が短くなってきた秋の夕方、寺町の外れを歩いていると、老齢の男性がメモを片手に右往左往している様子が目にとまった。頭髪こそきちんと切りそろえていたが、痩せさらばえた小柄なからだに皮が張りつき、顔には少し落ちくぼんだ目と伸びかけの白い無精ひげが目立った。懐から何度も取り出して確認したのか、手にしたメモにはだいぶシワが寄り、彼がこの町に土地勘のない来訪者であることを示していた。同行者とたわいもない話をしながら歩いていたわたしは、相槌を打ちつつ視界の端で男性の姿をとらえていた。来るだろうか。ややあって、男性が意を決したように歩み寄ってきた。

「すみません。〇〇駅はこっちでしょうか」

男性は不安げな面持ちであたりを見まわす。前方に目をこらすと、駅の看板がななめに顔を出しているのが見えたが、肝心の駅名は陰になって見えなかった。もともと地理の把握が苦手な様子の男性は、こちらの説明を聞いては何度も念を押すように確認する。わたしは繰り返し説明しながら、男性の言葉の感じから出身地を当てずっぽうに考えていた。滋賀、それとも福井あたりだろうか。東の出身のわたしには馴染みのない訛りで、どこのものか正確にはわからなかったが、なんとなく東海地方より西側であるように感じられた。雰囲気も長年東京で暮らしている人のそれではない。

そんな男性がボストンバッグを片手に上京した――。服装は白いシャツに黒っぽいスラックス。寺町という土地柄を考えると、誰かの葬式に参列した帰りなのかもしれない。戦友の葬式にしては男性はまだ若い。戦時中は小学生ぐらいだったはずだ。となると、古い知り合いだろうか。中学校か高校を卒業してすぐに故郷を離れ、東京の会社に就職。住まいは会社の寮で、同じ釜の飯を食う仲間がいた。地方から上京した男性は東京の暮らしに馴染めず、仕事もうまくいかず、上司には怒られてばかり。そんなとき、親身に相談に乗ってくれる先輩や同僚がいた。行き詰まった男性を見かねた彼らは、それとなく男性を励まし、男性もまた前向きに考えるようになり、しかしまた行き詰まって、また励まされ。そうして何度目かの行き詰まりに直面したとき、男性は荷物をまとめて故郷に帰ることにした。残念そうな面持ちで、それでもそれが男性にとって最良の選択ならと寮の前で見送る同僚たち。

「駅まで見送りたいけど、仕事があるからごめんな」親友と呼べるまでの間柄になったジロウは言う。「これ、みんなから。帰りに何かうまいもんでも食えよ」と、そっと餞別を手渡すジロウ。
男性はうつむき加減に、うん、うん、と何度もうなずく。ありがとう、さようなら、と言ったら涙が堰を切ったようにあふれそうだ。
「手紙、くれよ」と次に仲のよかったタケオが言う。
「あと、柿も」とお調子者のツヨシが軽口をたたき、周囲から小さな笑いが起こる。自分の故郷ではうまい柿が取れると男性が言っていたのを覚えていたのだろう。そんな軽口も男性にとっては名残惜しい餞別の言葉となった。
ちらっと顔をあげると、ジロウの目には涙が光っていた。男性は唇を噛みしめ、またうつむいた。「それじゃ」。男性には精いっぱいの別れの言葉だった。

男性は夜の寝台列車に乗る予定だった。本当は夕方に寮を出れば間に合ったが、同僚たちがみな出勤していくなか、ひとりだけ寮に残るのはためらわれた。夕方、仕事から戻った同僚たちのここでの暮らしが続いていく明るい雰囲気と、故郷に帰る自分の暗い雰囲気の対比を目の当たりにするのもつらかった。そこで午前の電車で帰ると嘘をついて寮をあとにしたのだった。

最後に何か見よう。そう思ってやってきたのは上野動物園だった。サル山の前でぼうっと立っていると、年端もいかない子供と母親の2人連れがそばにやってきた。
「おさるさんがいるね」
「そうね」
「いちばん強いのはどれだろう」
「あのお山のてっぺんにいるのじゃないかしら」
サル山の力関係を観察していた男性はわれに返った。そう、自分も妻をめとり、子供をもうけて東京でささやかな家庭を築くつもりだった。それがもう自分にはできないのだ。男性はやりきれなくなり、西郷会館の2階の食堂に向かったが、そこもまた上野見物の家族連れでいっぱいだった。故郷から出てきた義理の両親を連れた若い女性の姿もある。男性はハヤシライスをかき込み、早々に店をあとにした。
それからはあてどなく歩き、上野公園のベンチに腰をおろしたときには日が西に傾いていた。不忍池には日の残滓が落ち、蓮の葉と葉のあいだに茜色の光がにじんでいた。男性は、山の稜線の向こうに日が落ちる故郷の夕空がいちばんだと思っていたが、あらためて見る東京の夕空はそれを上回るものがあった。
渋る足を引きずりながらたどり着いた上野駅は、相変わらず人でごった返していた。男性は上野駅が嫌いだった。田舎から出てきた人と田舎へ帰る人が大勢行きかい、あくまでも田舎の流儀を押し通そうとする頑迷な田舎者と、表面的にはにこやかに応じつつも内心では嗤う都会人の心の動きが見て取れてつらくなるからだ。野暮と洗練がせめぎ合い、感情むき出しの争いを嫌う洗練から形式的に譲られたカップを、野暮は満足げに頭上高くかかげる。野暮ではありたくなかったが、かといって都会流の洗練も身についていない、しかし田舎者を馬鹿にすることもできない男性は居心地の悪さを否めないのだった。
うつろな気分で改札を通り抜け、寝台列車のとまるホームに下りる。もらった餞別で買った弁当を手に列車に乗り込み、三段式のB寝台の上段にボストンバッグを放り投げる。やがて列車がゴトンゴトンと動き出し、ホームで列車を待つ人々や駅弁売りの姿が車窓の後ろ、後ろへと流れてゆく。通路を行きかう人の流れが途切れたところで、男性は窓際の補助席を下ろして腰を落とした。弁当を食べはじめた男性の横を都会の光りが流れてゆく。建設の進むビルのひとつひとつにじっと目を凝らす。つぎにこの光を見るのはいつだろう。しだいに焦点がぼやけ、いつしか男性は窓に反射する自分の顔を見つめていた。

――駅までの道のりをようやく呑み込んだ男性は、「ここをまっすぐ行くだけですね」と自分に言い聞かせるように小刻みにうなずいた。そして、視線を斜め前方に固定したまま軽く頭を下げ、ボストンバッグを痩せさらばえた老身に引き寄せて歩きはじめた。その後ろ姿には、いろいろな思いを抱えながらも自分の人生を受け入れようと努めた人の、恬淡としたすがすがしさとほのかな影が漂っているように見えた。
 

迷子のくまが保護されるまで〜赤くて陽気な歌舞伎者〜

 
わが家に白いくまのぬいぐるみがやって来たのは8年前の冬だった。当時のわたしはふさぎがちで、表向きは笑っているけれど、内心ではいつも鬱屈とした梅雨空のような心境でいた。それを鋭く見抜いた知り合いがたまたまぬいぐるみ好きで、なかば自分の分身としてくまを遣わしてくれたのだ。ぬいぐるみが嫌いというわけではなかったが、インテリア等を考慮すると、部屋にぬいぐるみを置くという選択肢はそれまでのわたしにはなかった。しかし、せっかく遣わしてくれたのだから、飾らないわけにはいかない。幸いにも体長15センチほどのあっさり顔のくまで、特別主張が強いわけでもなかった。そのくまはやがて、熊之丞(くまのじょう)と命名された。命名したのはほかならぬわたしで、元の送り主が歴史好きだったために、いかめしい、勇猛果敢な武将を彷彿とさせる名を当てずっぽうでつけたのだった。こうして熊之丞とわたし、ふたりの生活がはじまった。

当初は熊之丞と仰々しい名で呼ばれていた彼も、しだいに短縮されてジョジョと呼ばれるようになり、さらに短縮されてジョと呼ばれることすら出てきた。ひどい簡略化だ。当初のジョジョは純真さをにじませながらも、ボケる主にするどくツッコミを入れるような一面もある愛くるしいキャラクターだったが、ひょんなことからメープルシロップ依存症の陽気で粗野なくまへと変貌していった。カナダに長期滞在していた知人からメープルシロップが送られてきたのがそもそものきっかけで、なおかつちょうどその時期に、わたしが主人公がシュガーハイになるコメディドラマを見てしまったことも大きく影響した。夫が浮気をしているのではないかと早合点した主人公が気持ちを静めるために、次からつぎにスティックシュガーを喉に流し込んでいくというストーリーだった。そこに“熊はハチミツ好き”という既存のイメージが加わり、すべてをドラム缶に入れてぐるぐるとかき混ぜてコックをひねったら、下の蛇口から“メープルシロップ依存症のくま”というろくでもない設定が出てきた。イメージとしては、いつも港の飲み屋街をふらついている赤ら顔の漁師というところだろうか。当初の言葉遣いはアニメっぽく、語尾も“〇〇であります”に統一されていたが、メープルシロップ依存症になってからというもの、北関東とも東北ともつかない、不思議なイントネーションで話すようになってしまった。熊之丞の最大の不運は、物事を深く考えないくせに、よけいなことはすぐに思いつく人間のもとに遣わされたことかもしれない。

それでも、熊之丞とわたしは病めるときも健やかなるときも共にあり、割と幸せに暮らしてきた。自宅で311の大地震に見舞われたときも、わたしの危機を察して棚の上からすかさず駆けつけてくれたし(単に転げ落ちてきただけだとか言わない)、やる気が失踪してなかなか仕事の手がつかないときも、そばに寄り添ってダメな自分を受け入れたら楽になると甘くささやきつづけてくれた。おかげで締め切りに四苦八苦するはめになったが、熊之丞はぬいぐるみだから、一部の自堕落な人間がそうであるように、自分サイドに相手を引きずり込んで安心するという意図はなかったのだろう。透明な善意だったのだ。

こうしたステディな関係にとって、関係を危うくしかねない危険因子のひとつがお互いの心変わりだ。対人間のほうはともかく、対ぬいぐるみに関してはわたしは潔癖なまでに誠実でありつづけた。ショップの店頭でかわいいくまを見かけても、いけないいけないと自制してその場をあとにしたし、知り合いから愛人にどうかと不要になったくまの譲渡をほのめかされても、堅物の生娘のように頑なに拒みつづけてきた。しかし、そんなわたしもナイチンゲール症候群には抗えなかった。


いつも出会いは突然に起きる。そのくまとの出会いも突然の出来事だった。ある日の夕方、近所を歩いていると、あるアパートの縁の下に目がとまった。もう日も短くなってきていた頃で、そのうえ普段はまったく目を向けないそんなところになぜ目が向いたのかわからない。何かに呼ばれたような気がして、ふと視線を上げると、縁の下のネズミ避けの格子の前に、体長10センチほどの赤いくまが横たわっていたのだ。赤いくまは薄汚れ、ぼんやりと虚空を見つめていた。誰かが落としたのだろうか。ちょっと手を空ける拍子に置いたにしては不自然な場所だった。誰かが落としたのを誰かが不憫に思って拾い、くぼみに置いていったのかもしれない。それでも持ち主が現れるかもしれないと思い、しばらく様子を見ることにした。だが、1週間が過ぎても、赤くまは虚空を見つめて横たわったまま。その諦念と疲れのにじんだ表情が、大きな公園などで見かけるホームレスの男性と重なった。心が痛んでもホームレスの男性を連れ帰って一緒に暮らすなどという独りよがりはできないが、くまのぬいぐるみならそれも叶うのではないか。

そこで、内輪でぬいぐるみ博士と呼ばれる御仁に意見を仰ぐことにした。かくかくしかじかで赤いくまがいるのだが、どうするべきかと。ぬいぐるみ博士はもう何日か様子を見てはどうかという。なるほど。もとの持ち主が必死に探している可能性もある。とは思うものの、もう1週間だ。おそらく落としたのは近所の住人だろうし、もし必死に探しているなら、そろそろ探し当ててもおかしくないはずだ。このまま放置していれば、ますます薄汚れて朽ちていってしまうかもしれない。その旨を伝えると、普段は穏やかなぬいぐるみ博士が、「保護しよう」と大きな威厳をにじませて提言した。それから数時間後、赤いくまは無事保護された。

調べてみると、赤いくまは千葉県のマスコットキャラクターで、巷ではチーバくんと呼ばれているという。しかし、それではあまりに味気ないということで、博士と検討に検討を重ねた。鮮やかな色合いや片目をつぶったところが見得を切ったときの歌舞伎役者のようでもある。最初は、しばらく露天暮らしをしていたことと、歌舞伎の『暫』という演目を掛け合わせてシバラクという名にしてはどうかと思ったが、人権ならぬぬいぐるみ権蹂躙もはなはだしい。再度検討していると、カブクマはどうかと博士が提案した。人形やペットに名前をつけるときにやりがちな方法で、ちょっと安易に感じなくもないが、カブクマと声に出して言ってみるとなかなか悪くない。かくして、長くて短い流浪生活を送った1匹の赤いくまは、おしゃれ着用洗剤で流浪の汚れと疲れを癒し、カブクマという名前とわが家の棚の中央という安住の地を得て安穏と暮らしている。
 

紅茶にみる“こだわり”の善し悪し

 
苦手な物事が平気になるどころか、突然好きになってしまうことがある。そうした心境の変化の前に何か大きな出来事があったわけでもない。本当に、突然、何の前触れもなく、好きになってしまうのだ。

これが色恋の話でないことにはわれながら遺憾の意を表さざるをえないが、今回わたしが見舞われたのは紅茶だった。幼いころからつい最近まで、わたしは紅茶が苦手だった。数ある飲み物のなかから自ら選ぶことはまずなく、訪問先で出された場合も失礼にならない程度に何度か口をつける程度だった。それが先日、コンビニで紅茶のティーバッグを買うことになった。急きょ客人が来ることになり、わが家には客人に出すにはいま一歩及ばない、普段づかいのコーヒーしかないと気づいたのだ。断然コーヒー党のわたしは、豆の値段がコーヒーの味に反映されがちだとはよくわかっていたが、紅茶にはコーヒーほど反映されないだろうと高をくくっていた。よほどでないかぎり、まずくはないだろうと。そこで購入したのが、10袋で100円ちょっとの黄色いティーバッグだった。コンビニに置いてあったのはそれか、違うメーカーのティーバッグだったので、なじみのあるパッケージの前者にしてみたのだ。

それから数時間後、来客があって飲み物を出すことになった。当初の予定ではわたしはコーヒーを飲むつもりだったが、自分の分だけドリップするのが面倒になってしまった。ティーバッグの紅茶なら、カップティーバッグを入れ、紐を外側に垂らしてお湯をそそぐだけだ。その手軽さに心を揺すぶられ、“自分の前にも飲み物があり、談笑の合間にカップを上げ下げする”というもてなしの体裁を取り繕うためだけに紅茶をいれることにした。

そんなぞんざいな扱いを受けたわりに紅茶は機嫌を損ねず、客人に「まろやかな味ですね」と言わせるほどいい仕事をしてくれた。じつはわたしは紅茶が苦手なわりに、その昔、姉の友人たちに紅茶を出すためにいろいろと研究を重ねていた。ティーポットに入れた茶葉をジャンピングさせるコツや、渋みを出さないコツ、乳臭さを出さずにロイヤルミルクティーを入れるコツなど、研究というにはおこがましい、何度もいれるうちに自然と会得したワザだった。それがティーバッグという、まずくいれるほうが難しい簡便な代物にどれだけ生かされたかはわからないが、ひとまず来客の舌が不服を申し立てなかったのは幸いだった。あとは体裁を取り繕うために、自分も何口か飲むだけだ。そう思ってカップに口をつけると、芳醇な香りが喉の奥から鼻腔に抜け、さらには身体の隅々に向かって何かがじわじわと浸透していった。目が見開かれ、眉根が寄り、カップのなかの赤みを帯びた茶色い液体をじっと見つめる――。

いや、何かの間違いのはずだ。紅茶がこんなに美味しいわけがない。少なくとも、わたしの舌との相性はよくなかったはずだ。さらにひと口、ふた口と飲むにつれて、自己不信の度は深まっていった。なぜだ。なぜこうも美味しいのだ。きちんとティーポットで茶葉をジャンピングさせた紅茶のような風味はないとわかるが、まちがいなく美味しいのだ。何かがガタガタと音を立てて崩れ落ちた。虚無感がひたひたと忍び寄ってくる。それまで正しいと信じていた研究に大きな穴があると悟った研究者のような気持ちだった。思考が完全に止まった。見渡すかぎり何もない茫漠たる原野をラクダの隊列が通りすぎていく。助けを求めるべきなのに、声を出す気力もなくただ呆然と見つめるだけだ。

「美味しい」
いつの間にか口をついて出ていた。客人はきょとんとしている。わたしは引きつづきテーブルの端に視線を固定したまま心情を吐露した。
「長年紅茶が苦手だったんですけど、いま試しに飲んでみたら、なんだかとても美味しいものに感じられてしまって」
「苦手って、いままでずっと?」
「ええ」
「それが突然?」
「ええ」
意味がわからない。もともと道理に合わないことを言う人だが、今回ばかりはどうにも解せない。客人の顔にはそんな困惑の色が浮かんでいた。だが、それ以上に意味がわからなかったのはわたしだ。

年を重ねると、ますます物事に対するこだわりが強くなるタイプと、逆にこだわりがなくなっていくタイプに分かれるように思うが、どうやらわたしは後者のようだ。思い返せば、かつてのような確固たる主義信条は薄れ、どんな意見に触れても、「へえ、そんな考え方もあるんだ」と思うようになってしまった。特定の立場から物を言うことも減り、相手の主張には、こういう見方もあるのでは、と明後日のほうから思いつきを提示するようになった。迷惑なことこの上ない。

こうした変化を柔軟になったと考えることもできるが、単に考えるのが億劫で阿呆になったとも言える。目先以外の問題について考えをめぐらせる時間は格段に減ったし、その分の時間がどこに流れるようになったかといえば、気づいたら時間が経っているところをみると、空想に耽っているか、さらにひどいときは抜け殻になっているのだろう。呼吸をしているだけで、人間としての活動を完全に停止しているのだ。もともと食べ物の好き嫌いはなかったが、出されれば食べるが積極的には食べようとは思わないものはあった。最近ではそうした選り好みもなくなり、紅茶に至っては美味しさに開眼すらしてしまった。このままいけば、どんどんこだわりがなくなり、どんどん思考しなくなり、どんどん阿呆になって、ますます自分が何者かわからなくなっていくのかもしれない。だが、見ようによってはそれも幸せなのかもしれない。いささか過剰で、しばしば日常生活の妨げになっている自我や自意識から解放されるという意味においては。
 

座敷わらしと小さな城

 
ひとり暮らし、フリーランス、30代。というと、自由の化身のように感じる人もいれば、絶望の化身と感じる人もいるようだ。おそらく後者のほうが実態に近い。わたしの場合、ひとり暮しは協調性がないうえに一緒に住む人がいないからで、フリーランスというのも仕事状況によっては無職同然、東京暮らしはほかに行く場所もなく出身地も水が合わないから居座りつづけているだけだ。ここまでくると、もうだれも自由の化身なんて口にしない。いや、口にすることを許さない。それでいて自由の化身のように振る舞っている節がある。仕事は趣味でやってるの、食べるためだけの労働を尊いことだとは思いませんよ、ほほほ、とあたかも高等遊民のような心持ちでいたいのだ。憐れみの目を向けられないように、自分の底にこびりついている尊厳を守るために。そんな目を向けられたら、自分を支えている細いアクリルの糸が切れて、へなっと前のめりに倒れ込んで死んでしまいそうだ。

常に孤独で、常に虚無感でいっぱいで、虚無感がおとなしくしているときは、たいてい自己無用感にさいなまれている。束縛されるようなこともないのに、突然、自由になりたいと渇望したりする。自由と背中合わせの不安を恐れているのに自由がほしくて、自由がほしいわりに不安要因を排除する知恵も気力もなく、そもそも自分の現状が自由か不自由かということすら判然としないまま空想世界に足を踏み入れて、不安ともリスクとも縁のない安全な自由に身をひたすことになるのだ。それは別名、逃避と呼ばれる。

そのかりそめの自由に身をひたす主な場所は自室で、20平米ほどの小さな空間は過去にも未来にも、遠い外国にも離れ小島にも逃れることのできる大宇宙だ。狭いだけあって物理的にも小回りがきき、あるときは食卓に、あるときはリビングに、あるときは寝室に、あるときはパーティルームにもなる多目的空間だ。キッチンは別としても、基本的には食べる場所も、寝る場所も、来客をもてなす場所も、わたしの場合は仕事をする場所も一緒。長年この環境で暮らしてきたことで、空間を目的ごとに使い分けるのが苦手になってしまったのも事実で、仮に広い家に引っ越して、どの部屋をこれこれ専用にして、と考えたところで、結局はLDKに座り心地のよいソファを置いて寝起きするのがおちだろうと思う。食後にソファでうたた寝して、ふと目を覚まして、おもむろに立ち上がって、わずか数歩でベッドにたどり着いて、むにゃむにゃ言いながら本気寝に入るという至福を知ってしまったら、もう最後。20平米の空間に便利さこそ感じても不便さを感じることはなく、土地柄も自分好みで、これ以上に住み心地のよい場所はないだろうとすら感じている。いまでも必要十分なのに、広い家に越したら維持費と掃除が大変になるだけではないか――。

ところが、誰にでも心境の変化はあるものだ。もともと間取り図を見ては、もし自分が住んだらと想像をめぐらすのが好きなので、不動産情報サイトは結構な頻度でのぞいている。その回数が最近はとみに増えていて、ちょっと内見に行ってもいいのではと思うに至った。そして某日、満を持して内見が決行されたのだった。

1軒目は、いま住んでいる部屋から歩いて10分程度の隣町にある物件だった。地域、広さ、間取り、設備、収納、その他もろもろ考え合わせても相当安価で、本気で引っ越しを考えている人が見合わせる理由を挙げるとしたら、1階で生活道路に面している点ぐらいだと思われた。それも防犯を兼ねたフェンスが目隠しになっているし、レースのカーテンを引くか、ロールスクリーンを窓の途中まで下ろせばさらに気にならなくなる。よほどのことがないかぎり、取り壊しになるまでいまの場所に住むかもしれないと思っていたわたしですら、ちょっと心惹かれてしまった。

2軒目は、いま住んでいる部屋からさらに近いところにあるメゾネットタイプの住宅で、表札に書かれていた前の前の住人の名字まで記憶している建物だった。かつて和風のつくりだったものを時代に応じて無理やり洋風にリフォームしたようで、内側は想像していた以上にアバンギャルドだった。広さのわりに収納が少なく、元和室でありながら押入れのようなものも見当たらない。飴色に磨き上げられた階段はなかなか魅力的だったが、踏み板の幅がせまく急なのが難点だった。

そんな階段をのぼっているうちに、どこかで見た昭和40年代の暮らしの映像が脳内に映し出された。そのままふわふわと腰窓のところまで行き、窓を開けて表の様子をながめた。見慣れたはずの街並みは、高い窓から望むとまた違ったものに見えた。何度かすれ違ったことのある中年女性が悠然とママチャリをこいでいき、客が入っている様子もないのになぜか営業をつづけている飲み屋のママが店を開ける支度をはじめていた。わたしが越してきた頃はまだママチャリの女性と同じぐらいの年かさだった彼女も、額に手をかざして空模様をながめている姿はすっかりおばあちゃんだ。そこには昔、酒屋があって、あっちには八百屋があってと、かつての街並みを重ね見ているうちに、たちまち郷愁がこみ上げてきた。つらいときも、楽しいときも、嬉しいときも、悲しいときも、自分はこの街の一角のあの部屋で暮らしてきたのだ。少しずつ着実に変わりゆく部分と、十年一日のごとく変わらずにありつづける部分。変わらなくていいのに変わってしまう街並みもあれば、変わりたそうなのに変われない街並みもある。親しみを感じていた板張りの民家がある日突然更地になり、やがてありふれたコインパーキングになってしまったのを見て、その場に立ち尽くしたこともあった。

両親とも亡くなって実家には次姉一家が住むようになり、もともと水が合わなかった出身地とはますます心理的な距離を感じるようになった。変わりたくないのに、変わらずに存在しつづけてほしいのに、自然の摂理というものにこちらの思いなど通じるはずもなく、まわりの景色はどんどん変わっていってしまう。自分にとって安心できる場所はこの街のこの部屋で、ほかにはないのだ。それでも、いま決断しなければずっと越せないままかもしれないと思い、いったんは1軒目の物件に移ろうと心を決めかけた。家具の配置はもとより、引っ越し先での暮らし、客人を招いているところ、あらゆるシチュエーションで想像をめぐらしてみた。しかし、そのあいだ、普段はめったにしない腕組みをしていた。きつく組んだ腕をさらに自分のみぞおちのあたりに引き寄せていた。腕組みは自分を守ろうとする心理の表れという。自分でもわかっていた。めずらしく“変わる”ということに前向きに取り組もうとしたが、本当は変わらずにいたいのだ。人間そのものの変化は避けられず、場合によっては好ましくても、自分の心のよりどころになる場所は極力変わらないでほしいし、変えずにいたいのだと。

こうして、わたしの引っ越し物語はひとまず幕を下ろした。つぎは、4年前から目をつけている目と鼻の先のマンションを買うときだろうか。予定している購入資金が宝くじの当選金なので、実現が危ぶまれるところではあるが。
 

大木洋食店の老コック

 
下町には数多くの洋食屋がある。ひと口に洋食屋といってもピンキリで、大衆食堂に毛の生えたような普段使いの店もあれば、特別な日にちょっとオシャレをして出かけるのに向くような店もある。ほんのり防虫剤のにおいのするツイードのスーツを着た父親に、半ズボンのスーツにピカピカの黒い革靴をはいた男の子、下町のおかみさん風の歯切れのいいしゃべりで子供の行儀に注意を配る訪問着を着た母親、彼らが囲むテーブルには糊付けされた真っ白なクロスがかけられ、エビフライやハンバーグステーキといった茶色に寄りがちな洋食の色彩を鮮やかに引き立てている。昭和中期の下町の上等な洋食店ではそんな光景もめずらしくなかったのだろう。ひるがえって、もっと庶民的な洋食屋ではどんな光景が繰り広げられていたのだろう。先日、ひょんなことから、そんな店に足を運ぶことになった。

わたしには驚くと笑ってしまう癖がある。その洋食屋の前に立ったときもそうだった。よくいえばレトロ、悪くいえば相当に古びているという情報は事前に入手していたのだが、いざ店の前に立つとやはり目を見張ってしまった。周囲の街並みがめまぐるしく移り変わるなか、ひとりだけ時のあゆみを止めてしまったような、それでいて人を吸い寄せるような、そんな不思議な魅力を放っていたのだった。店名を染め抜いたのれんは出ているものの、それをくぐるにはあと一歩の勇気が必要だった。同行者と顔を見合わせ、お互いの意思を確認すべくうなずきあったところで引き戸に手をかけた。

間口半間ほどのせまい入り口の奥には、50年前の東京の下町の空気が流れていた。入り口の上部に据えつけられたテレビから流れる海外ドラマも、最近の作品であるはずなのに音声がくぐもっていて、大昔に流行った『コンバット』かと思わず画面を確認してしまったほどだった。しかし、何よりも意表をつかれたのは人間――名物の老コックだった。まず出迎え方からして斬新だ。老コックは入り口を向いて椅子に腰かけ、すやすやと船をこいでいたのだ。わたしたちは戸惑い気味に声をかけてみたが、一度では目を覚まさない。二度目に少し大きな声で呼びかけて、ようやくうっすらと目を開いた。これで昼食を食べ損ねることはなさそうだ。

浅草の少し外れ、立川談志も通ったという大木洋食店の老コックは、加齢でくぼんだ目をしばたたかせながら席をすすめてくれた。差し向かいに座ったわたしたちの前にコップに入った水が置かれ、それぞれに注文を済ます。テレビからはいぜんとして新しいのに古さを感じさせる海外ドラマが流れ、入り口上部に取りつけられた扇風機は店内の熱気を休みなくかき回していた。何度も中途半端に腰を浮かせてしまうのは、テーブルの下の備えつけラックに雑誌がぎっしり詰まっていて足の収まりが悪いせいだ。何冊か手にとってみると、もっとも古いもので10年前の週刊誌がまぎれこんでいた。週刊誌としての情報価値はすでに消失しているが、いまはすっかり鳴りをひそめた懐かしの芸能人に再会できるというメリットはあった。

店内には4人がけのテーブルが4つ。そのうち厨房に近いテーブルは老コックの定位置と化していて、他の木の椅子よりいくぶん座り心地のよさそうな肘かけ椅子が彼専用に据えられていた。入り口に近い席の壁には、経年の紫煙や油煙で茶色く変色したビニールカバーがかかっているが、厨房との目隠しになっているわけでもなく用途が不明だ。わたしたちの注文を聞いた老コックは、先ほどまでの眠そうな顔はどこへやら、しゃきっと背筋を伸ばして厨房の奥へ入っていった。

ちょうど目の高さに、出来上がった料理や空いた食器を出し入れするための差し出し口がある。老コックがひとつひとつの作業を丹念にこなしていく様子が目に入る。素材に衣をつけて熱した油に入れ、きゅうりの漬物を刻み、ごはんを盛りつける。同行者はハヤシライス、わたしはエビフライ定食という作業量に差のある料理にもかかわらず、ほぼ同時に運ばれてきたところに長年の経験を感じさせた。きゅうりの漬物を刻みはじめたとき、遠目にはピクルスにも見え、まさかいまからタルタルソースを作るのかと心配した。タルタルソースも嫌いではないが、フライは極力ソースで食べたいのだ。中途半端に手をつけて、老コックの誇りを傷つけたくなかった。だが、それはタルタルソースではなく、2人分をまとめて別皿に盛りつけたきゅうりの漬物だった。

料理がテーブルにところ狭しと並んだ。いや、狭いテーブルに肩を寄せ合っていたというほうが正しいかもしれない。味噌汁は家庭で出されるようなやさしい味で、この手の店に多い喉の締まるような濃いものではなかった。同行者のハヤシライスは美味しく、わたしのエビフライ定食はふつう。決してまずくはないのだが、何かが突出しているわけでもない。しかし、この店には味など二の次でいいと思わせるものがあった。年季の入った店と老コックの織り成すたたずまいを味わうことが優先されるのだ。

わたしたちが食べはじめると、老コックは寸暇の居眠りから目覚めたばかりの椅子にふたたび腰を下ろし、おもむろにタバコに火をつけた。禁煙喫煙の区別などなく、老コックみずから紫煙をくゆらす。最近ではすっかり悪者に成り果てたタバコも、この店では味のある小道具として輝いていた。クラシックなバーにおける紫煙がモノクロ映画のロマンティシズムであれば、昭和の風情を色濃く残す大木洋食店のそれは大衆演劇のダイナミズムだった。そうしたダイナミズムに反して、各テーブルにはさりげない繊細さがただよう。陶芸品にも量産品にも見える花瓶に、わずかに萎れながらも美しく調和のとれた生花が生けられていた。その生花の奥に、年季の入った店内の特等席でタバコをくゆらす、シワの寄った前掛けをした老コックの姿が透けてみえる。

メインのエビフライより美味しさの際立つ玉ねぎフライを口に運びながら、ときおり店内に目をやる。常連だった立川談志の写真や彼直筆の格言に混じって、草花や風景の写真が目にとまる。それに気づいた老コックが親しげに話しかけてきた。高校卒業後、終戦の爪あとが残る昭和20年代に“口減らし”で南アルプスの麓から浅草にやって来たこと。以来、この店でコックをつとめ、先代亡き後は店をまかされていること。壁に飾られているポップな絵は先代が趣味で描いたものであること。そして、写真が趣味であること。

老コックは、大昔に二眼レフで撮ったという故郷の寒村の写真を見せてきた。冬は雪深いという南アルプスの麓の集落が写っている。二眼レフという響きから、わたしは老コックがまだ若かりし頃、小僧扱いをされていた時代の休日に上野方面へ遊びにいき、御徒町のカメラ屋の前で立ちどまる姿を想像した。ショーウィンドウには太い黒縁のメガネをかけた男性や、コロコロとした身体にウエストを絞ったワンピースをまとったアップヘアの女性が映り込む。若かりし老コックは行き交う人々の姿など気にもとめず、ひたすらカメラに見入る。店内に入って実物を手に取ってみると、まるで自分の身体の一部のようにすっと手中に収まる。しかし、値札を見ると、いますぐ買えるような値段ではない。若かりし老コックは給料をため、数ヵ月後にふたたび店をおとずれた。この日から彼とカメラの付き合いがはじまった。当初は二眼レフで故郷の風景を撮っていた彼も、いまではスカイツリーが映り込む川面などを撮って見る者を感嘆させる。彼が特にテーマをもうけず、気の向くままに撮りづけた写真は何層にも積み重なり、彼の人生とそのまわりを流れていった悠遠の時を感じさせることに成功していた。

「いまのカメラは性能がいいから何でも綺麗に撮れる」と謙遜するが、褒められるとまんざらでもないようで、次々と写真の収められたアルバムをめくる。写真について話す彼の目に老人のよどみはなく、好奇心に満ちた少年の輝きがあった。玄人はだしなので見ていて飽きないのだが、問題はここが洋食屋ということだ。わたしたちは食事に来ているのであって写真を見に来ているわけではない。老コックが丹精をこめて作った料理は徐々に冷めゆき、わたしと同行者は暗黙の了解で交互に老コックの相手をすることにした。片方が老コックの写真の解説やよもやま話につきあっているあいだにもう片方が集中して食べ、そろそろかというところで選手交代。食べているあいだも話に耳をかたむけ、興味深い話があればときおり老コックに視線をやって、なるほどという風にうなずく。天ぷら屋で冷めた料理を食べさせられた話、浅草の喫茶店がケーキセットにべらぼうな値段をつけようと相談にきた話など、客にする鉄板の話があるようで、それがしばしば繰り返される。これが常連の談志なら、「おやっさん、その話、さっきも聞いたよ」とちょっと斜にかまえた猫背の上目遣いで言えるのだろうが、いちげんの客はうっすらと笑みをうかべて相槌を打つのが道理だ。

インターネットを用いた電子商取引にも批判的で、自分ならこうすると一家言を披露する。老コックの店は談志が常連だったというネームバリューに加え、一部のファンがネット上で広めたことで顧客が増えたはずなのだが、それを指摘するのは野暮というもの。老コックの話を聞いてはニヤニヤし、すっかり冷め切った味噌汁を飲み干し、途切れそうで途切れない話の節目を探しているうちにコップの水も空になり、しばらくして向こう岸にわたる渡し舟がやって来た。これが最後のチャンスとばかりに飛び乗り、老コックに挨拶をして往来に出た。道々、次回は何を食べようと同行者と相談する。ふと、老コックのシワの寄った白い前掛けの前に映える、黄色いタマゴと赤いケチャップのオムライスが目に浮かび、ああ、ご馳走だなと思った。
 

階段は黒猫の塹壕と化して

 
黒猫という生き物は、なぜああも歓迎されないのだろう。しばしば不吉な存在とされ、出がけに前を横切られると悪いことが起きると嫌われることすらある。もしかすると、ビロードのように艶々とした黒色が神秘性と相反する邪悪さを漂わせるからなのかもしれない。猫のなかでもとりわけ得体の知れない存在と見なされがちだ。

しかし、どうもわたしはこの黒猫という存在が気になって仕方がない。好きというほどではないが、とにかく気になってしまう存在なのだ。猫のなかでもとりわけ得体の知れない存在と見なされがちで、その得体の知れなさがたまらない。公園で、路地裏で、猫の集会に遭遇すると、黒猫がいないかつい目で追ってしまう。ときにはこちらから探さなくても、黒猫みずから姿を現してくれることもあるのだ。


まだ夜も明けきらない午前4時。階下に向かう共用階段を下りはじめた。一段、また一段と下りていくと、途中で何か黒い物影が動いた。暗がりに目を凝らすと、そこにはまだ幼い黒猫がうずくまっていた。腰を低く落とし、相手の出方しだいではすぐに飛びかかるか、走り去ることのできる警戒心に満ちたあの体勢で。

それにしても、こんな高い場所までどうやって上ってきたのだろう。いや、猫だって階段ぐらい上れるだろうが、たいていは住人と鉢合わせするのを恐れて敷地内には入り込んでこない。何年も前に玄関先にサナギから孵るか孵らないかという頃合の蝶の幼虫が置かれていたことがあり、その直後に近所の軒先でいつも懇意にしているトラ猫がいつになく得意げな顔をしているのを見て氏からの贈答品だと気づいたのだが、そのときも猫が上階まで階段をのぼってきたことに驚いたものだった。しかし、今回は警戒心が強そうな黒猫だ。頭のネジが数本飛んでいるような、隙あらば人間の懐にひょうひょうと入っていってしまうあのトラ猫とはわけがちがう。偶然迷い込んだのだろうか。それからもしばしば階段の中頃でうずくまる黒猫を見かけたが、黒猫はこちらの姿を見ると、ただでさえ丸い目をさらに丸くして、あわてふためいた様子で階段を駆け下りていった。

黒猫はなぜ階段の、それも中頃という中途半端な場所でうずくまっているのだろう。その原因が明らかになったのは、ジメジメとしたある朝のことだった。散歩に出るべく支度をしていると、静まり返った明け方の住宅街にするどい猫の鳴き声が響きわたった。喧嘩が勃発したようだ。それも裏手から、かなり盛大な鳴き声が聞こえてくる。早々に勝負がつくかと思いきや長丁場で、わたしが玄関を出るころになってもまだ威嚇合戦はつづいていた。こうなっては、苛立った近隣住人が文字どおり水を浴びせたり、より手の込んだ猫撃退策を講じたりするようになるかもしれない。お互いの威勢を競っている当猫どうしはまだしも、わたしが懇意にしているあのトラ猫をはじめ、まるで緊迫感を持たずのんびりと暮らしている猫たちまでとばっちりを食らっては気の毒だ。そう思いながら階下に下り、数歩すすんだところで足を止めた。一触即発の状態でにらみ合うふたつの猫影。わが家の真裏が決闘の現場だったのだ。片方は前出のトラ猫とはまた別の、角の公園一帯をテリトリーにする若トラ猫。そしてもう片方は、なんとあの黒猫だった。

両者ともに、ううーだの、おえおーだの、低くうなって一歩もゆずらない。試しに彼らを凝視しながら、足を踏み込む真似をしてみた。ふたりともすばやく奥に飛びしさった。しかし、そのまま数メートル奥で決闘を再開。よりによって、家のしつらえからひと目で猫嫌いとわかる民家の玄関の前だ。さすがにそこまで踏み込んでいって仲裁するのはためらわれる。猫には猫の始末のつけ方があるだろうし、なによりよその家の敷地に無断で立ち入っては不法侵入になる。蒸し暑い夏の朝に怪しい風体の女が自分の家の敷地内で2匹の猫のあいだに立ち、真顔で仲よくするよう言い聞かせている姿を目撃したら、迷わず警察に通報するだろう。そこまで危険を冒すわけにもいかず、両猫に早く決着をつけるよう目配せしてから、その場をあとにした。

決闘のゆくえが気になりつつも、わたしはちょっと合点がいったような気持ちでいた。決闘の様子を見て、黒猫が何らかの原因でもとのシマを追われ、よそのシマにひっそり身を寄せていると推察されたからだ。夜中に階段の中頃でうずくまっていたのも、新しいテリトリーのボスやその一味に見つからないよう身をひそめていたのだろう。大半の人族が寝静まり、猫族が活動的になる夜中、奥まった場所にある階段は人の往来もなく追っ手の猫にも見つかりにくい絶好の隠れ場所だ。

それからさらに数日して、ゴミ捨て場から空き缶のぶつかり合う音が聞こえてきた。人間が空き缶を回収ボックスに入れる音にしては長く、手早さが問われる収集業者にしては楽器でも奏でているような優雅な音色だ。外出先から戻ってきたわたしは、昼すぎという時間帯にしても、優雅な音色にしても、いぶかしく思って周囲を見まわした。24時間いつでも出せるゴミ置き場ではないので、住人は決まった日に出さなくてはならない。この日はちょうど収集日だったのだが、昼すぎという時間からしてとっくに収集は終わっているはずだし、回収ボックスも折りたたんでしまわれているはずだった。ところが、どこからともなく空き缶のぶつかり合う音が聞こえてくるのだ。そのとき、視界の端で何かが動いた。植え込みのあたりに黒い物影――あの黒猫だった。

時間までに出し損ねたのか、ビニール袋に入った魚か猫缶の空き缶が置かれていて、黒猫はそれを必死で取り出そうとしていた。もうにおいしか残っていないだろう。あたりどころが悪ければ舌を切ってしまうかもしれない。それでも、どうにか食べ物を獲ようとする姿に胸が痛んだ。このあたりの地域猫たちは公園で餌をもらっているので、ゴミをあさるような真似はしない。つまり、黒猫は餌にありつけていないのだ。どうにか猫公園でお相伴にあずかれないものかと思うが、そこにも決闘相手の若い茶トラがいる。よそのシマに無断で立ち入った身、そのうえ餌をもらおうなど他の猫が許さないのだろう。


わたしは、犬派か猫派かと問われれば、仲よくしてくれるならどちらでもと答える浮気者だが、近ごろは猫のほうにより親しみを感じるようになってきた。ヒゲの切れた猫のように自分の身幅を目測するのが苦手で、長年住んでいる家なのに肩やひじをぶつけては青アザをつくることがよくあるのも、もしかするとどこかで猫の血が混じっているからかもしれない。

ある日、くだんの黒猫が玄関をノックして室内に入ってきて、そのまま居着くようになるという夢を見た。黒猫の定位置はソファの横で、寝床は黒猫自身が持参したビーズクッションだ。もうこうなったら、遠縁のよしみで置いてやるのが筋ではないかと思うも、わが家はペットの飼育が禁じられている賃貸。管理会社ともめて路頭に迷っては、猫を飼うどころの騒ぎではない。自分がだれかに拾ってもらわなくてはならなくなる。とりあえず、猫を飼っても路頭に迷う心配がなくなるまで、つまりは猫を飼える家に引っ越すまで、くだんの黒猫には頑張って自力で生き残ってもらうしかない。わたしが新しい家に引っ越す頃には黒猫も大出世を遂げて、このあたりのボスになっているかもしれない。そうしたら、猫缶でもご馳走になろう。
 

カビと都落ちの女たち

 
どうしてこの黒カビは言うことを聞いてくれないのだろう――。

わたしは浴室の中央で呆然と立ち尽くしていた。かれこれ20分近く、窓枠に付着した黒カビと格闘していたのだ。しかし、使い古した歯ブラシを溝に押し込もうが、カビ取り洗剤を吹きつけようが、黒カビはびくともしない。次第にあざ笑われているような気さえしてきた。他の箇所には生えないくせに、もっとも取りにくい窓枠のゴム部分にだけ繁殖しやがって。そもそも、念入りな掃除なんて慣れないことをするのが間違っているのではないか。ふだんはスプレータイプの洗剤を浴室全体に吹きつけて、ザッとスポンジで洗うだけだ。それも2週間に一度ぐらいの頻度で。そのくらいの頻度であれば水垢も汚れも気にならないという、“より快適に、より自堕落に”をモットーとした長年の一人暮らしで得た結論だった。ところが、黒カビだけは快適な自堕落生活に寄与してくれない。ヤツだけは道の真ん中に陣取って、わたしの進路を邪魔するのだ。本当はこんなはずじゃなかったのだ。少なくとも十数年前に聞いた話では。


遊び呆けていた16歳のわたしにとって、百貨店のトイレは格好の着替え場所だった。仙台というさほど大きくない街で、制服で夜遅くまで遊んでいては補導される心配があったため、帰りが遅くなりそうなときは学校の帰りに百貨店のトイレで着替えていたのだった。女子トイレというのはさまざまな本音が聞かれる場所で、個室のドア1枚を隔てて見知らぬ人の重要な局面に立ち会うことがある。多くは些細な噂話だったりするのだが、ときには摩訶不思議な情報が飛び込んできたりするのだ。

それは梅雨を間近にひかえた、ある晴れた日のことだった。いつものように百貨店のトイレで制服から私服に着替えていると、ガラガラ、カンカン、ビシャビシャという騒音がトイレ内に響きわたった。どうやら掃除の時間のようだ。着替えが終わってメイクに取りかかっていると、掃除婦とおぼしき女性2人の話し声が聞こえてきた。片方は仙台地方独特のイントネーションで、おそらくは下町エリアに居住している人。もう片方は露骨なまでに標準語で、南関東のイントネーションを強調してしゃべる人だった。声から判断するかぎり、仙台夫人は50代、関東夫人は40代と思われた。話の主導権は後者の関東夫人にあり、彼女は何かにつけては、いかに関東地方が優れていて、いかに東北地方が劣っているかと、ステレオティピックな事例をあげて説明していた。だが、仙台夫人がさほど関心を示さずに受け流していると、関東婦人は何を思ったのか、「関東地方では浴室にほとんどカビが生えないのに、仙台に来てからというものカビに悩まされっぱなしなのよ」と力説しはじめた。「気のせいじゃないか」と応じる仙台夫人。しかし、関東夫人はうんざりした様子の仙台夫人などお構いなしで、いっそう声を高くした。

「いいえ、それがぜんぜん違うのよ。こっちに来てからというもの、ひと月も経たないうちにカビがびっしり生えてるの。関東にいた頃はそんなことなかったのに」

浴室の内壁材や風通しの問題ではなく、あくまでも気候風土の問題なのだろうか。何か謎解きがあるかなと期待半分に耳をそばだてていたが、あいにく仙台夫人が「さっさと掃除を済ませよう」と話を切り上げてしまった。関東夫人にとっては重要なテーマである“優れた関東と劣った東北”も、仙台夫人にとっては不愉快なテーマにほかならなかった。

関東夫人は夫の転勤か離婚か、何らかの事情で一定期間または残りの人生すべてを仙台で過ごさざるをえなくなった。それを割を食ったと思い、都落ちの悔しさを仙台夫人にぶつけていたのだろう。あるいは、人からあまり敬意を示してもらえない掃除婦という仕事に引け目があり、関東人という東北人よりは優位に感じられるアイデンティティにすがって自尊心を保とうとしたのかもしれない。そこでカビの繁殖という突飛な比較軸を示して、自分がかつて住んでいた関東の優位性を示そうとしたのだ。本来なら東京と言ったほうが通りもいいし、相手からも一目置いてもらえる。しかし、彼女が住んでいたのは東京ではなく、名誉東京とでもいうべきエリアだったため(横浜であれば、その垢抜けたイメージと同地への誇りから堂々と横浜と言っただろうことを考えると、彼女の前住地は埼玉あたりか)、関東と言わざるをえなかった。そこに彼女の正直さが垣間見えた。

仙台夫人は仙台での暮らしに特に不満を持っていないが、東北人特有のぼんやりとした地元への自信のなさがあった。ぼんやりとした自信のなさには、誰かに自分を肯定してほしいという思いが半ばする。だから、いざ地元を否定されると、アイデンティティが揺らいでつい反論したくなってしまうのだ。押しなべて他者評価が高く、住みたいと思う人が多い地域であれば、第三者の否定的な意見も鷹揚に受け入れられるだろうが、自信のない地域の住人にとって第三者の否定的な意見のダメージは大きい。こうした否定的な意見に接したとき、地元から出ていくことを考えていない、もしくは出ていけない若者の葛藤は計り知れないものがある。


カビの話を聞いた数ヵ月後、わたしはあるファストフード店で友達が来るのを待っていた。店内には学校帰りの女子校生、勉強にいそしむ男子大学生、子連れの母親、そして何をしているのかわからないサラリーマンの姿があった。やがて階段をのぼるドタドタという足音が聞こえてきた。のぼってきたのは数名の若い女性。みなスーツ姿で表情も凛々しく、いわゆる総合職の人たちのようだった。だが、彼女たちの口元はへの字に曲がり、見るからに不満が溜まっているようだった。彼女たちが指を鳴らせば、暗雲が垂れこめてきて土砂降りの雨が降り出しそうな不穏な雰囲気をまとっていた。

席についたとたん、ショートカットの女性が口火を切った。なぜ自分たちは仙台などという魅力に乏しい場所に配属になったのかと。彼女たちは街の魅力のなさ、東北人の上司の悪口、ありとあらゆる不満を吐露し合っていた。東京の生活を知る彼女たちにとって、東北から出たことのない上司は井の蛙で、視野の狭さが我慢ならないようだった。長年親しんだ土地でありながら、いまひとつ街の空気になじめず、気持ちの上ではとっくに割り切れていたわたしですら、思わず眉をひそめてしまうような内容だった。仙台が嫌いでない人にとっては聞くに耐えない内容だっただろう。

夕刊を眺めていたサラリーマンはぎょっとして彼女たちのほうを凝視した。卒なく平凡な暮らしを守ることに徹してきたような主婦風の女性は彼女たちを一瞥すると、幼稚園ぐらいの子供の気をそらそうと窓辺の席から表を指さした。女子高生たちはチラチラと様子をうかがいながら、頭を突き合わせて小声で話しはじめた。男子大学生も彼女たちのほうを一瞥すると、なにか急に落ち着きをなくしたようにノートに視線を落としたままペンを回しはじめた。

無言のざわつきはさざ波のように店内に広がり、やがて壁の向こうに消えていった。彼女たちのうちの1人がため息まじりに切り捨てた。

「ほらね、知らない人なのに無遠慮に見るでしょ。だからこの街は嫌いなの」

彼女たちは人事上の不満を、配属先となった魅力に乏しい街の住人にぶつけることで解消しようとしたのだろうか。でも、わたしはある事実に気づいた。彼女たちの会話に「田舎だから嫌い」という言葉は一度も出てこなかったのだ。あくまでも、この街=仙台が嫌いなのだ。また、嫌いな上司の話し方の一例として、「いや、んでも」と否定から会話がはじまることを挙げていた。相手の発言をひとまず否定で受けてから、自分の見解を述べるというのは南東北の男性に顕著な傾向かもしれない。類似するものに大阪人の「〜みたいやな。知らんけど」という言い回しがある。どちらも不確定な事象への確言を避け、ひいては自分の発した言葉に対する責任を放棄するニュアンスを含むが、頭で否定される分だけ前者のほうが心象が悪い。まして免疫のない彼女たちからすれば、ことさら違和感を覚える言い回しだったのだろう。彼女たちはひととおり毒を吐き出すと、ぞろぞろと立ち上がって再び魅力に乏しい街のなかに消えていった。


あれから十数年。浴室のカビに悩まされていた関東夫人は関東に返り咲くことができただろうか。辺境の地に飛ばされた彼女たちは望むべき場所に落ち着くことができただろうか。わたしが偶然にも立ち会ったのは、彼女たちにとっても順風ではない局面で、いまはあの頃よりは納得のいく日々を送っているのかもしれない。ただ、関東夫人にはちょっとだけ文句を言いたい。いま現在、わたしは東京に住み、浴室の黒カビに悩まされていると。