階段は黒猫の塹壕と化して

 
黒猫という生き物は、なぜああも歓迎されないのだろう。しばしば不吉な存在とされ、出がけに前を横切られると悪いことが起きると嫌われることすらある。もしかすると、ビロードのように艶々とした黒色が神秘性と相反する邪悪さを漂わせるからなのかもしれない。猫のなかでもとりわけ得体の知れない存在と見なされがちだ。

しかし、どうもわたしはこの黒猫という存在が気になって仕方がない。好きというほどではないが、とにかく気になってしまう存在なのだ。猫のなかでもとりわけ得体の知れない存在と見なされがちで、その得体の知れなさがたまらない。公園で、路地裏で、猫の集会に遭遇すると、黒猫がいないかつい目で追ってしまう。ときにはこちらから探さなくても、黒猫みずから姿を現してくれることもあるのだ。


まだ夜も明けきらない午前4時。階下に向かう共用階段を下りはじめた。一段、また一段と下りていくと、途中で何か黒い物影が動いた。暗がりに目を凝らすと、そこにはまだ幼い黒猫がうずくまっていた。腰を低く落とし、相手の出方しだいではすぐに飛びかかるか、走り去ることのできる警戒心に満ちたあの体勢で。

それにしても、こんな高い場所までどうやって上ってきたのだろう。いや、猫だって階段ぐらい上れるだろうが、たいていは住人と鉢合わせするのを恐れて敷地内には入り込んでこない。何年も前に玄関先にサナギから孵るか孵らないかという頃合の蝶の幼虫が置かれていたことがあり、その直後に近所の軒先でいつも懇意にしているトラ猫がいつになく得意げな顔をしているのを見て氏からの贈答品だと気づいたのだが、そのときも猫が上階まで階段をのぼってきたことに驚いたものだった。しかし、今回は警戒心が強そうな黒猫だ。頭のネジが数本飛んでいるような、隙あらば人間の懐にひょうひょうと入っていってしまうあのトラ猫とはわけがちがう。偶然迷い込んだのだろうか。それからもしばしば階段の中頃でうずくまる黒猫を見かけたが、黒猫はこちらの姿を見ると、ただでさえ丸い目をさらに丸くして、あわてふためいた様子で階段を駆け下りていった。

黒猫はなぜ階段の、それも中頃という中途半端な場所でうずくまっているのだろう。その原因が明らかになったのは、ジメジメとしたある朝のことだった。散歩に出るべく支度をしていると、静まり返った明け方の住宅街にするどい猫の鳴き声が響きわたった。喧嘩が勃発したようだ。それも裏手から、かなり盛大な鳴き声が聞こえてくる。早々に勝負がつくかと思いきや長丁場で、わたしが玄関を出るころになってもまだ威嚇合戦はつづいていた。こうなっては、苛立った近隣住人が文字どおり水を浴びせたり、より手の込んだ猫撃退策を講じたりするようになるかもしれない。お互いの威勢を競っている当猫どうしはまだしも、わたしが懇意にしているあのトラ猫をはじめ、まるで緊迫感を持たずのんびりと暮らしている猫たちまでとばっちりを食らっては気の毒だ。そう思いながら階下に下り、数歩すすんだところで足を止めた。一触即発の状態でにらみ合うふたつの猫影。わが家の真裏が決闘の現場だったのだ。片方は前出のトラ猫とはまた別の、角の公園一帯をテリトリーにする若トラ猫。そしてもう片方は、なんとあの黒猫だった。

両者ともに、ううーだの、おえおーだの、低くうなって一歩もゆずらない。試しに彼らを凝視しながら、足を踏み込む真似をしてみた。ふたりともすばやく奥に飛びしさった。しかし、そのまま数メートル奥で決闘を再開。よりによって、家のしつらえからひと目で猫嫌いとわかる民家の玄関の前だ。さすがにそこまで踏み込んでいって仲裁するのはためらわれる。猫には猫の始末のつけ方があるだろうし、なによりよその家の敷地に無断で立ち入っては不法侵入になる。蒸し暑い夏の朝に怪しい風体の女が自分の家の敷地内で2匹の猫のあいだに立ち、真顔で仲よくするよう言い聞かせている姿を目撃したら、迷わず警察に通報するだろう。そこまで危険を冒すわけにもいかず、両猫に早く決着をつけるよう目配せしてから、その場をあとにした。

決闘のゆくえが気になりつつも、わたしはちょっと合点がいったような気持ちでいた。決闘の様子を見て、黒猫が何らかの原因でもとのシマを追われ、よそのシマにひっそり身を寄せていると推察されたからだ。夜中に階段の中頃でうずくまっていたのも、新しいテリトリーのボスやその一味に見つからないよう身をひそめていたのだろう。大半の人族が寝静まり、猫族が活動的になる夜中、奥まった場所にある階段は人の往来もなく追っ手の猫にも見つかりにくい絶好の隠れ場所だ。

それからさらに数日して、ゴミ捨て場から空き缶のぶつかり合う音が聞こえてきた。人間が空き缶を回収ボックスに入れる音にしては長く、手早さが問われる収集業者にしては楽器でも奏でているような優雅な音色だ。外出先から戻ってきたわたしは、昼すぎという時間帯にしても、優雅な音色にしても、いぶかしく思って周囲を見まわした。24時間いつでも出せるゴミ置き場ではないので、住人は決まった日に出さなくてはならない。この日はちょうど収集日だったのだが、昼すぎという時間からしてとっくに収集は終わっているはずだし、回収ボックスも折りたたんでしまわれているはずだった。ところが、どこからともなく空き缶のぶつかり合う音が聞こえてくるのだ。そのとき、視界の端で何かが動いた。植え込みのあたりに黒い物影――あの黒猫だった。

時間までに出し損ねたのか、ビニール袋に入った魚か猫缶の空き缶が置かれていて、黒猫はそれを必死で取り出そうとしていた。もうにおいしか残っていないだろう。あたりどころが悪ければ舌を切ってしまうかもしれない。それでも、どうにか食べ物を獲ようとする姿に胸が痛んだ。このあたりの地域猫たちは公園で餌をもらっているので、ゴミをあさるような真似はしない。つまり、黒猫は餌にありつけていないのだ。どうにか猫公園でお相伴にあずかれないものかと思うが、そこにも決闘相手の若い茶トラがいる。よそのシマに無断で立ち入った身、そのうえ餌をもらおうなど他の猫が許さないのだろう。


わたしは、犬派か猫派かと問われれば、仲よくしてくれるならどちらでもと答える浮気者だが、近ごろは猫のほうにより親しみを感じるようになってきた。ヒゲの切れた猫のように自分の身幅を目測するのが苦手で、長年住んでいる家なのに肩やひじをぶつけては青アザをつくることがよくあるのも、もしかするとどこかで猫の血が混じっているからかもしれない。

ある日、くだんの黒猫が玄関をノックして室内に入ってきて、そのまま居着くようになるという夢を見た。黒猫の定位置はソファの横で、寝床は黒猫自身が持参したビーズクッションだ。もうこうなったら、遠縁のよしみで置いてやるのが筋ではないかと思うも、わが家はペットの飼育が禁じられている賃貸。管理会社ともめて路頭に迷っては、猫を飼うどころの騒ぎではない。自分がだれかに拾ってもらわなくてはならなくなる。とりあえず、猫を飼っても路頭に迷う心配がなくなるまで、つまりは猫を飼える家に引っ越すまで、くだんの黒猫には頑張って自力で生き残ってもらうしかない。わたしが新しい家に引っ越す頃には黒猫も大出世を遂げて、このあたりのボスになっているかもしれない。そうしたら、猫缶でもご馳走になろう。