紅茶にみる“こだわり”の善し悪し

 
苦手な物事が平気になるどころか、突然好きになってしまうことがある。そうした心境の変化の前に何か大きな出来事があったわけでもない。本当に、突然、何の前触れもなく、好きになってしまうのだ。

これが色恋の話でないことにはわれながら遺憾の意を表さざるをえないが、今回わたしが見舞われたのは紅茶だった。幼いころからつい最近まで、わたしは紅茶が苦手だった。数ある飲み物のなかから自ら選ぶことはまずなく、訪問先で出された場合も失礼にならない程度に何度か口をつける程度だった。それが先日、コンビニで紅茶のティーバッグを買うことになった。急きょ客人が来ることになり、わが家には客人に出すにはいま一歩及ばない、普段づかいのコーヒーしかないと気づいたのだ。断然コーヒー党のわたしは、豆の値段がコーヒーの味に反映されがちだとはよくわかっていたが、紅茶にはコーヒーほど反映されないだろうと高をくくっていた。よほどでないかぎり、まずくはないだろうと。そこで購入したのが、10袋で100円ちょっとの黄色いティーバッグだった。コンビニに置いてあったのはそれか、違うメーカーのティーバッグだったので、なじみのあるパッケージの前者にしてみたのだ。

それから数時間後、来客があって飲み物を出すことになった。当初の予定ではわたしはコーヒーを飲むつもりだったが、自分の分だけドリップするのが面倒になってしまった。ティーバッグの紅茶なら、カップティーバッグを入れ、紐を外側に垂らしてお湯をそそぐだけだ。その手軽さに心を揺すぶられ、“自分の前にも飲み物があり、談笑の合間にカップを上げ下げする”というもてなしの体裁を取り繕うためだけに紅茶をいれることにした。

そんなぞんざいな扱いを受けたわりに紅茶は機嫌を損ねず、客人に「まろやかな味ですね」と言わせるほどいい仕事をしてくれた。じつはわたしは紅茶が苦手なわりに、その昔、姉の友人たちに紅茶を出すためにいろいろと研究を重ねていた。ティーポットに入れた茶葉をジャンピングさせるコツや、渋みを出さないコツ、乳臭さを出さずにロイヤルミルクティーを入れるコツなど、研究というにはおこがましい、何度もいれるうちに自然と会得したワザだった。それがティーバッグという、まずくいれるほうが難しい簡便な代物にどれだけ生かされたかはわからないが、ひとまず来客の舌が不服を申し立てなかったのは幸いだった。あとは体裁を取り繕うために、自分も何口か飲むだけだ。そう思ってカップに口をつけると、芳醇な香りが喉の奥から鼻腔に抜け、さらには身体の隅々に向かって何かがじわじわと浸透していった。目が見開かれ、眉根が寄り、カップのなかの赤みを帯びた茶色い液体をじっと見つめる――。

いや、何かの間違いのはずだ。紅茶がこんなに美味しいわけがない。少なくとも、わたしの舌との相性はよくなかったはずだ。さらにひと口、ふた口と飲むにつれて、自己不信の度は深まっていった。なぜだ。なぜこうも美味しいのだ。きちんとティーポットで茶葉をジャンピングさせた紅茶のような風味はないとわかるが、まちがいなく美味しいのだ。何かがガタガタと音を立てて崩れ落ちた。虚無感がひたひたと忍び寄ってくる。それまで正しいと信じていた研究に大きな穴があると悟った研究者のような気持ちだった。思考が完全に止まった。見渡すかぎり何もない茫漠たる原野をラクダの隊列が通りすぎていく。助けを求めるべきなのに、声を出す気力もなくただ呆然と見つめるだけだ。

「美味しい」
いつの間にか口をついて出ていた。客人はきょとんとしている。わたしは引きつづきテーブルの端に視線を固定したまま心情を吐露した。
「長年紅茶が苦手だったんですけど、いま試しに飲んでみたら、なんだかとても美味しいものに感じられてしまって」
「苦手って、いままでずっと?」
「ええ」
「それが突然?」
「ええ」
意味がわからない。もともと道理に合わないことを言う人だが、今回ばかりはどうにも解せない。客人の顔にはそんな困惑の色が浮かんでいた。だが、それ以上に意味がわからなかったのはわたしだ。

年を重ねると、ますます物事に対するこだわりが強くなるタイプと、逆にこだわりがなくなっていくタイプに分かれるように思うが、どうやらわたしは後者のようだ。思い返せば、かつてのような確固たる主義信条は薄れ、どんな意見に触れても、「へえ、そんな考え方もあるんだ」と思うようになってしまった。特定の立場から物を言うことも減り、相手の主張には、こういう見方もあるのでは、と明後日のほうから思いつきを提示するようになった。迷惑なことこの上ない。

こうした変化を柔軟になったと考えることもできるが、単に考えるのが億劫で阿呆になったとも言える。目先以外の問題について考えをめぐらせる時間は格段に減ったし、その分の時間がどこに流れるようになったかといえば、気づいたら時間が経っているところをみると、空想に耽っているか、さらにひどいときは抜け殻になっているのだろう。呼吸をしているだけで、人間としての活動を完全に停止しているのだ。もともと食べ物の好き嫌いはなかったが、出されれば食べるが積極的には食べようとは思わないものはあった。最近ではそうした選り好みもなくなり、紅茶に至っては美味しさに開眼すらしてしまった。このままいけば、どんどんこだわりがなくなり、どんどん思考しなくなり、どんどん阿呆になって、ますます自分が何者かわからなくなっていくのかもしれない。だが、見ようによってはそれも幸せなのかもしれない。いささか過剰で、しばしば日常生活の妨げになっている自我や自意識から解放されるという意味においては。