間違われた電話は最後に笑う

 
本当は必要ないのに、見栄のために持っているものは多い。ときにはほんの少しでいいものを必要以上に持っていることもある。それでも見栄で持っているということは、自分の意思であるから理不尽さは感じない。これが見栄ではなく、尊敬や信用を得るために持ちつづけているのであれば結構な重荷だ。

かつての一般世帯における固定電話は必需品であり、文明生活の友でもあった。昔は固定電話を引くとなると、数万円にも及ぶ加入権を購入しなければならず、懐が寂しくなると加入権を担保にして借金する人もいたという。90年代も後半になると、携帯電話が広く普及しはじめたが、固定電話の地位はまだ安泰だった。しかし、2000年代に入る頃には、ひとり暮らしをはじめるにあたって固定電話を引かず、携帯1本ですませる若者も増えてきた。一般世帯に占めるインターネット普及率が現在ほど高くなく、ネットの利用に際して固定電話を引く必要がなかったのも一因かもしれないが、ネットの普及によって固定電話の契約者数が増えたかといえばそうでもなかった。スマートフォンなどの簡便な接続手段の登場も重なり、従来型の加入電話IP電話を加えた固定電話の加入者数は減少しつづけているという。

時は流れて2010年代、いまや個人で事業をしている人はおろか、“ひとり法人”で固定電話を持たない人まで出てきた。たしかに個人で事業をしていると外出することも多く、固定電話にかけてもつながりにくい。なかには、固定電話を設置していながら、昼夜を問わず鳴りつづける電話への防御策として、簡単に電源の切れる携帯電話の番号のみ名刺に記載している人もいる。一時期、「名刺にフリーメールのアドレスのみ記載して、プロバイダメールのアドレスを記載しないのは信用面でどうか」という言説をよく目にしたが、名刺に携帯電話の番号しか記載していない人に対しても同じような印象を抱く人はいるのだろう。それを押してでも無駄を排し、合理性を優先するという選択肢もあるのだ。

なぜこんなことを考えたかといえば、わたし自身が固定電話の解約を検討しはじめたからだった。実に10年あまり同じ番号を使いつづけ、さまざまな連絡をこの固定電話を通して受けてきた。嬉しい連絡もあれば、悲しい連絡もあり、なかには一生忘れられないであろう衝撃的な連絡もあった。

当初のメインは固定電話で、携帯電話はあくまでもついでに持つものという認識だった。受電数でいえば、すでに携帯のほうが多かったが、それが2000年代も半ばに差しかかると、感覚的な主役も固定電話から携帯電話へと移っていった。ちょうどその頃、Skypeが誕生した。インターネット電話やテキストチャットに対応したスマートフォンアプリがなかった頃は、パソコンでSkypeを使っていたが、Skypeの弱点はオンラインでなければ相手とリアルタイムに連絡が取れない点にあった。そこで固定電話を持っていて、もろもろの事情を勘案してこちらの固定電話の番号を教えても差し支えない人にはそれを教え、携帯でかけてきても長電話になりそうなときは料金の安い固定電話に切り替えて話していた。しかし、Skypeスマホに対応し、やがてViberやLINEといった優れたアプリが誕生した。こうなると、固定電話を維持しつづける理由とは何だろう。一応、フリーランスという立場を考えると、固定電話を持っていたほうがいいのかもしれないが、かかってくる電話の9割9分は携帯宛だ。

個人情報の登録に際して、固定電話と携帯、両方の番号を登録していても、業者からは十中八九、携帯にかかってくる。親しい人はViberやLINEでかけてくる。近年、固定電話は主に姉との長電話用だった。いっときはSkypeで話していたが、いちいちアプリないしソフトを立ち上げてオンラインにする手間が面倒で、結局、固定電話に戻ってしまった。手の空いたときに、あるいはちょっと集中力の途切れたときに、ふと思い立って話そうと思うのに、メールなどでSkypeをオンラインにするよう要請するのはどうも興を削がれてしまうのだ。そんな彼女もスマホに買い替え、かかってくる電話といえば、某区役所の駅前事務所との間違い電話ぐらいになった。どうしてこうも頻繁にかかってくるのかと思って調べてみると、なるほど、市外局番を除く8桁のうち1桁しか違わない。あまりにも頻繁にかかってくるので、いつからか、間違い電話とわかると、その旨を伝えたうえで正しい番号を案内するという無償のサービスを提供しはじめた。下町の気のいいおじさん、いかにも山の手の上品なおばさま、少ないボキャブラリーでどうにか要件を伝えようとする若年男子など、あらゆる層の人からかかってきたおかげで、わたしは彼らの口調を習得し、声帯模写として内輪で披露するまでになった。


声帯模写のネタを仕入れられなくなるのは残念だが、きっと、いまが潮時なのだ。インターネットもケーブルテレビの回線を使っているから問題ない。そう思って電話会社に連絡すると、40代ぐらいとおぼしき女性が電話口に出た。解約の旨を伝えると、確認のために名前と電話番号を言えという。それらを告げると、解約日や工事の日程を決める話に入った。そこで彼女が言った。

「解約日を過ぎますと、お電話はつながらなくなります。“お友達”からかかってきた際に、お困りということであれば、携帯電話などの番号を案内する音声を流すこともできますが、いかがいたしますか?」

最初はふんふんと聞き流していたが、ふと引っかかりを覚えた。いったん来た道を引き返し、けつまずいた場所を探す。“お友達”だ。“お友達”とはどういうことだろう。ここは“お知り合い”と言うべきところではないだろうか。彼女は、わたしにかかってくる電話の多くは“お友達”というフランクな間柄の人からで、地域や社会との関係が希薄と見なしたのだろうか。そもそも契約時に生年月日を記入しているのだから、わたしの年齢はわかっているはずだ。そのくらいの年齢になれば、人間関係の幅も多少広がり、気心の知れた友達とだけ付き合うわけにもいかないと想像できるのではないだろうか。契約時の書類に未婚や既婚を問う項目があった覚えもない。原因は3つ考えられた。

(1)わたしの声が異様に若く聞こえた。
(2)「所帯持ちは社会的信用の観点から固定電話を持っているのが当たり前で、いくら不要だからといって固定電話を解約するのは気楽な独身者ぐらい」という認識が彼女にはあった。
(3)契約者名にはわたしの名、すなわち女性名が書かれている。所帯持ちで固定電話を契約する場合、一般的には夫の名前となるため、わたしを社会的信用を気にしなくてもいい、地域との付き合いの薄い独身者と見なし、主に電話をかけてくる相手を“お友達”と想定した。

1の可能性は低い。少なくとも20歳やそこらに間違われる声質ではない。となると、2か3、あるいはその両方だろう。下等生物と見なされている感がすさまじかった。世界中から食料が消えて人類が飢えに苦しみはじめたら、ごく当たり前ように捕食されるかもしれない。え、だって、これ、食料でしょ? みたいな顔で。

「固定電話は社会的信用の証、携帯電話は補助的なもの」と考える人が一定数存在することは理解していたが、たぶん、彼女自身はそうした考えをにじませた言葉を選んだことに気づいていない。黒髪でセミロングの、天パなのか本物のパーマなのか判別のつかないごわごわのパーマをかけた、一重まぶたでアイメイクはいっさいしていない、口紅はスティックから直接塗る派の40代既婚女性の姿が目に浮かんだ。

流通系カードはかろうじて作れたけれど、わたしに社会的信用がないのは間違いないだろうし、その点については反論するつもりもないが、見ず知らずの黒髪セミロングごわパー女に、何の責任も負わなくていい気楽な独身者のように思われたことには納得がいかなかった。たとえ事実だとしても。ここでまた別な考えが脳裏をよぎった。もしかすると、パーティガールだと思われたのでは? だから、「“お知り合い”より、さまざまな意味を含んだ“お友達”のほうがこの場合適切だろう、ちょっと揶揄まじりに」と踏んだのではないだろうか。バブル世代の固定電話至上主義者なら、誘いの連絡は家の電話で受けると思っているだろうし。ないだろうけど。

こうして3月のなかばに決断した固定電話との別れは当月末に訪れ、新年度とともにひとつ身軽になった。別れの数日前には感傷的になり、まだやり直せるかもしれない、月々2000円弱の維持費に目をつぶればいいだけだ、とも思った。でも、子機を手に取ったところで思い直した。どう考えても無用の長物だ。買った当時も少数派だった感熱紙ファックスと、ずっしりと重い子機が10年あまりの歳月を感じさせた。電話線を抜こうとしたところで、留守禄のランプが点滅していることに気づいた。再生ボタンを押すと、住民票について尋ねるメッセージが朗々と流れてきた。間違われつづけた電話らしい、みじめで輝かしい最期だった。