その夜、パーティで

 
霧雨の降る肌寒い夜、街外れに立つ奇妙な黒いビルは地上からのライトに照らされておぼろに佇んでいた。正面玄関の脇には大黒天の石像が鎮座し、柔和さのなかに不気味さを秘めた笑みを浮かべて来客を迎えている。大黒天の横の正面玄関前には小さな車寄せが設えられていた。
その夜、車寄せに1台のタクシーが到着した。臨時で雇われたドアマンは条件反射で玄関のドアの取っ手に手をかけたが、目には生気がなく、客が通っている途中でいつ手を離すとも知れなかった。見慣れた緑色のタクシーから降り立った亜由子と翔は、ドアマンの危うい挙動にそれとなく注意を払わざるをえなかった。


皮肉なことに、翔と亜由子が知り合ったのもコンビニのドアの前だった。亜由子は早出の出勤前でスーツを着、翔は建設現場に向かう途中で洗いざらしの作業着を着ていた。その朝、そのコンビニに立ち寄らなければ、2人は知り合うこともなかったはずだった。亜由子はコンビニから程近い場所に住んでいたが、翔が住んでいたのは3駅先。現場に向かう途中、地下鉄の階段をのぼり切ったところにあるそのコンビニに立ち寄り、缶コーヒーを買うつもりでいた。

翔は一瞬の迷いもなく、亜由子に声をかけた。彼はどんな社会的な障害も、誠意を示せば乗り越えられると信じていた。亜由子は警戒心もあらわに翔を一瞥した。面倒な男に絡まれたかと思ったのだった。しかし、翔は冷たい一瞥にもめげず、自分の気持ちを率直に伝えた。翔は端正な顔立ちで、筋骨隆々とした肉体を備えていることは作業着の上からも見て取れた。その彼が自分に一目惚れしたという。亜由子は理性よりも情欲を優先した。翔の肉体的な魅力に抗えなかったのだ。軽いデートとデートの数だけの肉体関係が重ねられたが、真剣な付き合いには至らなかった。少なくとも最愛の夫のいる亜由子にとっては、遊びにすぎなかったのだ。だが、翔はただの遊び相手では満足しなかった。深入りを避けるために亜由子があえて聞いていなかった家族や自分の生活について事細かに話し、より深い関係を求めるようになった。ほぼ毎日メールをよこし、亜由子の1日の出来事を知りたがる。翔の執着を察知した亜由子はそろそろ距離を置こうと思いはじめていた。そんな矢先、あるパーティに招待されたのだった。

パーティの参加条件はただひとつ。異性の友達を1人連れて行くというものだった。参加者本人が友達と認識していれば、元恋人や元配偶者であっても構わないという。亜由子は欠席することも考えたが、主催者との関係上、逃れることは難しかった。さらに悪いことに、結婚以来、男友達との付き合いが薄くなっていた彼女にとって、同伴者を見つけるのも至難の業だった。そこで白羽の矢を立てたのが翔だった。そもそもは体裁を取り繕うためだったが、胸の内には、パーティでいい出会いがあれば翔も別の人に関心を持つようになるかもしれないという思惑も潜んでいた。

亜由子たちが会場のホールに入っていくと、大勢が一堂に会し、すでにお互いの腹の探り合いをはじめていた。服や持ち物で相手の財力を値踏みし、ところどころに飾られたアート作品の感想を求めては相手の教養を推し量った。場慣れした参加者がグラス片手にやって来ては、翔に意地悪な質問を投げかける。ある男は株の仕組みを知らない翔に投資を勧め、しどろもどろになる彼を見ては小さく笑った。有象無象がうごめく会場のなかに、ひとりだけ誰に対しても礼儀正しく接する男がいた。亜由子に向けられる憂いを含んだまなざし──。亜由子が学生時代に付き合っていた伸洋だった。昔は地味だった伸洋もすっかり垢抜け、いまではデザイン関係の仕事をしていると風の便りで聞いていた。その彼がいま、自分の目の前に現れた。亜由子はさりげなく伸洋の左手薬指に目をやった。指輪はなかった。亜由子は自分の薬指から指輪を外そうと思ったが、いま彼の目の前で外すのは不自然すぎた。それに、亜由子が結婚したことは共通の友人を通して伝わっているはずだ。

伸洋は亜由子と視線がかち合うと、警戒心を抱かせまいとするかのように、昔と少しも変わらない困ったようなはにかみを浮かべ、ゆっくりとした足取りで近づいてきた。
「まさかこんなところで会うとはね。元気にしてた?」先に口火を切ったのは伸洋だった。
「まあね。そっちは?」と言いながら、亜由子はグラスを口元に運んだ。
「ぼちぼちってところだね」伸洋は視線を落とし、亜由子の左手をちらっと見やった。わずかな間をおいて言葉を継いだ。「そういえば、結婚したって?」
「うん。気づいたらそんなことになってた」
「いいな。俺も気づいたらそんなことになってないかな」軽口を装っていたが、伸洋の心臓が早鐘を打っていることは、不自然な息つぎや顔色からも間違いなさそうだった。

伸洋ととりとめのない会話を続けながら、亜由子は翔の姿を目で追っていた。最初はおどおどして落ち着きのなかった彼も徐々に場に慣れ、悠然とした足取りで会場内をさまよい歩いていた。それでも天性のそそっかしさは変わらず、トレーを捧げ持ったボーイとぶつかりそうになり、避けようとしたところで背後にいた若い女とぶつかった。女がよろめくと、翔はあわてて彼女の腕を取って抱き起こした。彼女は翔のたくましい腕につかまって顔を見上げた。そこには野性的な男の姿があった。スーツに着られている感もあったが、かすかに乱れた肩や二の腕のラインは彼のたくましさを声高に主張しているようでもあった。
女の目つきが瞬時に変わった。欲望と理性のはざ間で葛藤しているのだろう。やがて女は、彫りの深い翔の顔の、特に印象的な目に向かって秋波を送りはじめた。亜由子がそうだったように、彼女もまた翔の魅力には抗えなかったのだ。

目の前で新しい欲望の火花が散った瞬間を見ていた伸洋は、翔からほかの参加者に視線を移しながら苦笑まじりにつぶやいた。「こんなパーティ、誰が考えたんだろうな。連れがほかの誰かとデキて、もう片方の連れは置いてけぼりを食らう。自分が恋愛市場でいかに無力か思い知らされるよ」
「もしかして、あの女性って伸洋の?」
「そう。合コンのメンバーを集めてほしいときと、ひいきのミュージシャンのチケットが捌けないときだけ連絡をよこす女」
「なにそれ」亜由子は笑った。適材適所というところなのだろう。「じゃあ、ふたりしてあぶれたわけだ」
目の前で起きていることから目が離せなくなっていた伸洋は生返事をしたあと、不意に亜由子のほうを振り向いた。「あぶれたって?」
「彼女の相手の男、私の連れなの」
伸洋は愉快そうにもう一度、翔と女のほうを見やった。「知り合い?」
「まあ、寝るには申し分のない相手。付き合うには物足りないけど」
伸洋の顔から笑みが消え、戸惑いが広がった。亜由子は伸洋の戸惑いには応じず、先をつづけた。
「ねえ、このあと、階上のバーで飲まない? 伸洋と私とあのふたりで」
「あのふたりと?」何か物言いたげな伸洋を無視して、亜由子は“あのふたり”のもとへ向かった。伸洋も渋々あとをついていく。

バーに移動してからというもの、4人はそれぞれに対して他人行儀に振る舞った。お互いに自分のことを根掘り葉掘り聞かれるのを嫌がっているようだった。自分のことを話してまで親しくなりたいとも思っていなかったし、話す気力もなかったのだ。既知の関係は関係の詳細を話すまいとし、新しい関係はそれを人に邪魔されまいとした。特に女は亜由子に微笑みかけ、お互いにいい雰囲気でしょ、と不可侵を求めて無言の圧力をかけた。虚実入りまじった当たり障りのない会話から、全員がそれぞれの関係を漠然と把握していたのに、暗黙裡に奇妙な団結をして、決して真実は口にしようとしなかった。亜由子と伸洋はただの同窓生を、伸洋と連れの女は取引先の社員同士を、亜由子と翔は清く正しい遊び友達を演じた。肉体関係があることを少しも感じさせないという意味において、このときの亜由子と翔は完璧だった。

一致団結と高度なバランスの上に成り立っていた新しい人間関係は、会計を済ませて階下に下りる頃にはすっかり元に戻ってしまっていた。パブロフの犬と化したドアマンは、エレベーターホールから近づいてくる4人の姿を目にすると、表情を少しも変えず機械的にドアを開けた。だが、長時間立ちっぱなしのドアマンはその頃にはもう、自分の手先に意識を向ける気力すらなくなっていた。不意に腕から力が抜けてだらりとぶら下がり、その反動で最後に通過していた翔がドアに挟まった。表に出ていた3人は気遣う言葉をかけるでもなく、その様子を漫然と眺めている。迷妄の宴はすでに終わっていた。

近くにタクシーの姿はなく、後ろを振り返ると、死んだ魚のような目をしたドアマンが大黒天の石像の横に立ち尽くしていた。4人は表通りまで歩くことにした。最初にタクシーをつかまえたのは伸洋の連れの女性だった。これも一致団結、というよりは彼女以外の3人の意思によるところが大きかった。

彼女を見送ると、伸洋は手首を内側に曲げて腕時計を街灯にかざした。「終電間に合いそうだから、俺、電車で帰るわ」そして、胸ポケットから携帯を出しかけたが、少し宙を見つめてからポケットに戻し、亜由子と翔に向き直って会釈した。「それじゃ」

彼の姿が見えなくなると、翔はようやく獲物にありついた野獣のように、亜由子を背後から荒々しく抱きしめた。亜由子の思惑は外れたようだった。
「あの男、誰?」出し抜けに翔が言った。
「学生時代のカレ」
「いまでも惚れてる?」
「まさか」
「でも、向こうはそうじゃなさそうだったけどな」
亜由子が何も答えずにいると、翔は顔をかしげて亜由子の耳に唇をつけた。「やきもち焼いてくれた?」
「何に?」
「さっき、バーで。俺、あの女の人と仲よくしてたけど」
「どうだろうね」亜由子はくすっと笑った。「でも、仲よくしてるように見せたいなら、名前ぐらい覚えなきゃ。翔、彼女の名前、2回も聞き直してたでしょ。思い出せなくて」
「いや、3回」
「もっと悪い」
翔が低く笑う振動が背中づたいに亜由子に伝わった。突き放すには心地よくなりすぎていた。もう後戻りできないところまで来ていることは彼女にもわかった。

「俺、いつまで我慢できるかな。この頃、亜由子のすべてが欲しくてたまんなくなることがある」
「すべてはあげられないけど、1割ならいいよ」
「1割じゃ足りない。もっとほしい」翔は切羽詰まったような声でささやいた。「旦那と幸せ?」
亜由子は何も言わず、翔の腕に頬を重ねた。翔は亜由子の髪のなかに顔をうずめ、か細い声でつぶやいた。
「……ごめん」

いつしか雨は上がり、雲の切れ目から月が顔を出していた。いまにも折れてしまいそうな下弦の月はしばらく雲海を漂っていたが、やがて分厚い雲の向こうに姿を消した。